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織田信長の性格や策略ではなく、地政学的な観点から見た躍進の理由!

      2016/01/04


群雄割拠の時代に終止符を打った織田信長。

本能寺の変で斃れるものの、当時日本には織田家に対抗できる勢力はもはやなく、彼の天下統一事業は達成される目前でした。

実際に、織田家領土の内部分裂を数年でまとめ上げ、その土地と兵と政策を継承した豊臣秀吉が本能寺の変から8年で天下統一を成し遂げています。

なぜ群雄割拠の戦国時代に信長がここまで勢力を拡大できたのか。

様々な要因がありますが、彼の最初の領土である尾張という国の地政学的な観点からそれを検証してみましょう。

 

尾張国は現在の愛知県の西半分とほぼ一致する地域でした。

信長が家督を継いだ1551年当時、いくつかの勢力に割れていましたが、1555年ごろには信長は尾張国のほぼ全域を掌握します。

この「尾張一国の大名」から、織田信長の躍進は始まるのです。

 

実は、尾張国は当時の日本でも屈指の豊かな土地でした。

広い濃尾平野に木曽三川を中心とした豊富な水源を備えた土地柄は、とても農業開拓に向いていると言えます。

当時の尾張の石高は、実は一国で石高50万石にものぼるものでした。

「尾張一国の小大名」とはいえ、東北や四国・九州あたりの辺境ならば、2~3カ国分に匹敵する国力だったのです。

当時の日本の「国」単位では最も米がとれる国だったと言って差し支えありません。

 

さらに商業も盛んでした。

当時の日本最大の商業都市圏といえば、京都・堺がある近畿地方でしたが、実は尾張も非常に商業が活発な地域でした。

木曽三川の水運を中心に物流の中心地となっていたこの商業圏は、信長が独自の商業政策でさらに発展させ、江戸時代は徳川幕府の直轄領として繁栄し、現在の名古屋都市圏に繋がっていきます。

このように、尾張という国は当時でも珍しく高い農業生産性と商業活動を両方備えた地域だったのです。

さらに、当時の日本の中心地であった京都に非常に近い。

このような土地だからこそ、信長も関所の廃止や楽市楽座などの画期的な商業政策を実施できたともいえます。

 

尾張国を掌握した信長はその後、桶狭間の合戦で奇跡の勝利を挙げ、美濃(現在の岐阜県南部)の斎藤氏を倒し尾張・美濃二か国の大名となります。

美濃もとても豊かな土地であり、尾張と美濃を合わせた石高は100万石にものぼります。

当時、京都の付近でこれ程の石高をもった勢力は他にありませんでした。

ある意味では、この時点をもって信長の天下統一事業は約束されたともいえるのです。


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